この世の美

2006年9月10日
悪い夢を見て、目が醒めた。

深酒をすると悪い夢を見ると
教えてくれたのは、彼だった。

飲みすぎた酒が残る重い体を起こし
怠惰に時計を見る。まだ6時だった。

カーテンを開け、部屋の外の世界を見る。
明け方の空は、東に徐々に光を孕んでいるが、
世界はまだ眠りについている。
静かな世界。

神々しい空の色と、静寂の中に響く鳥のさえずり、
ベランダに広がる緑の香り・・・

都会の中では忘れ去られているはずの
自然という存在を、ふいに感じさせられ
不覚にも、涙が滲んでくる。

美しいものを目にする喜び
美しい音を耳で聞ける喜び
五感が正常に作用しているという事への感謝。
教えてくれたのも、また彼だった。

彼は生まれつき、世界から音を失っていた。
ほんのかすかな左耳の聴力で、わずかな音をかき集め
音というものを手探りで自分のものしようとしていた。
日々、必死に。

私たちには到底想像のできない、音の無い世界。
大海原の波の音も、
アシュケナージのピアノも、
窓辺で涼やかに揺れる風鈴も、
迫力をなくした小音量になり、
そして歪んでいた。

あるとき、耳栓をして一日過ごそうとして、
3分でギブアップした。
音が聞こえないということが、どれほど不安であることか。

私たちにとって気が狂いそうな異常な事態を、
彼はうまれつき強いられていた。
それなのに、音のない世界を持つ彼は
音のある世界を持つ私たちを凌駕していた。
彼の弾くピアノは、これ以上なく繊細で、優雅で、
慈愛に満ちて優しかった。

五感を当然のように享受している者たちが
知らず知らずに持つ傲慢さがまったくなかった。

神は、彼から奪い、そして与えていた。
それが、特別な者ということなのかもしれない。
何が幸せなのかはわからない。

彼と別れて、随分経つけれど、
悪い夢を見た朝には、必ず彼を思い出す。

普段、夢すら見ないほど疲労して深い眠りに
沈んでいる私が、決まって見る夢は悪夢で、
都会の早いサイクルの中で、あらゆることに忙殺されて、
物事に感謝することや、自然の美しさを感じることを
忘れてしまっている自分に、時々彼は現れ忠告してくれる。
美しい音となり、美しい景色となり。

私にとって、世の中の美は彼という存在と同義なのだ。

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