千世がついおきあがろうとすると、眠っていたとおもった男の手がぐっと肩にのびて来て、
「きみはじつにうつくしい。」
そのことばの中に、くちびるが合った。

うつくしい。

それこそ千世のほうから発しようとしたことばであった。

毛ほどのすきも無いと見えた昼の服飾を脱ぎすてて、
青年の素はだかは申分なく、
すこやかな四肢の、骨太に力を秘めて、
照る肌の色、燃える血のにおい、
すべて千世が今までに夢みたかぎりのいかなる男性の像をも越えたところに、実物の威令が破裂した。

たちまち、ふたり一体に、炎のとぐろを巻きあげて、恋は成就した。
むしあつい夜は油のように快適であった。
千世はあえぎのはてに眠り、
眠の底に沈んで、何も見えなくなった。

この部屋のけしきのきたなさ、まずしさ、みじめさは、
すべて炎に焼き消されたようであった。

(石川淳「まぼろし車」より/1956年)

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