夏の白球は永遠に

2008年7月28日
夏の甲子園大会予選が終わり、来週から甲子園球場で本大会が始まる。

高校野球など興味の外だけれど、今年は妙に胸が昂ぶっている。
永く忘れていた人のことを、不意に思い出してしまったから。

******

物心ついたときから文化系の私は、外で汗だくになって走り回る「スポーツ」という行為に何ら魅力を感じられない高校生だった。

私は冷房の効いた図書室で近代文学なんかを手に取っていて、彼は灼熱の陽が照りつけるグランドで白いボールを投げていた。
彼は野球部で、いわゆるエースピッチャーだった。

私たちはただクラスが同じというだけで、接点はまったくなかった。
彼が放課後にグラウンドで部の仲間たちと大声で叫びながらランニングやピッチングに精を出している頃、私は繁華街に繰り出して、友人や彼氏と当時大流行していたプリクラを撮るか、カラオケに興じるか、マックで油っぽいフライドポテトをつまみながら延々と無駄話をしているのだった。

そんな高校3年の夏。
我が校の野球部も当然、県の予選大会に出場し、野球部員がいるクラスは騒然と興奮した。
もちろん、私のクラスもである。

といっても、皆でまとまって応援に行くような仲の良いクラスではなかったので、それぞれの“仲良しグループ”で連れ立って球場へ行った。

私は…といえば、初めのうちは無関心を装っていた。
が、1回戦、2回戦と勝ち進んでいき、クラス全体のムードが団結して高揚してゆくにしたがって、その熱気を無視することができなくなってしまった。
それで、3回戦になって、ようやく重い腰を上げ、級友について球場へ向かった。

忘れられない、7月のその日。
吹奏楽部が演奏する「タッチ」や「ルパン三世」などのおなじみの野球音楽、応援団の野太い応援、そして学生たちの歓声。

その一種の陶酔にも似た雰囲気の中で、もはや興味のない振りなどできなくなった私は、いつしか友人たちと一緒になって、叫び、立ち上がり、笑い、はしゃいでいた。

そして、彼が打席に立った。
話もしたことのないクラスメイト。

教室では、同じ体育会系の部活に所属している連中とつるんで、下品な話題で騒いでいる彼のことを、私は、例えばサガンも太宰もボードレールも読んだことのないのだろう、食欲と性欲と野球しか頭にない、デリカシーのかけらもない奴、と内心でバカにしていた。

その彼は、それまで私が見たこともないような真剣な顔つきでバットを構え、まっすぐにピッチャーを見据えていた。
静かな闘志を湛えた瞳、強い意志で結ばれた口元…。

遠いスタンド席で、細かな表情など見えるはずがない。
それでも、私には彼の目が、口元が、眉間に寄ったシワが、はっきりと私の目前に迫って、確かに見えたのだった。

…そして、私は、私の彼への認識が間違っていたことに気づいた。

そう思ったのと同時に、彼に向かって白いものが豪速で突き進んできて、そして彼はそれに向かって勢いよくバットを振った。

青い空に、カーン、と、真夏の空気を割るような高らかな音が響き、ともなって、白球が空の高みへと向かっていった。

飛んでいったのではない、空へ駆け上がっていったのだ。
私には、そう見えた。

******

結局、その試合には負けた。
嘘のように教室の熱気は冷めていった。
数日前までのざわめきが嘘のように、皆そ知らぬ顔で机に向かって参考書を広げていたのだった。
有数の進学校の生徒として、それぞれがまた怜悧な表情で、半年後にやってくるセンター試験という人生最大の難関(それは、たかが18年間の人生だが)を迎え撃つための研鑽に粛々と戻っていった。

一時のゲームに興じ、ゲームオーバーになれば、それで終わり。
クラスメイトたちにとって、甲子園大会予選というのはそういう存在だった。
予選敗退は、本腰を入れた受験勉強へのスイッチのように。

だけど、彼にとっては違った。
簡単に切り替えられるゲームじゃない。

もちろん、彼も級友たちと一緒に受験勉強を始めたけれど、
あれで終わる夢ではなかった。

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人の心なんて、本当にわからないものだ。

些末なきっかけで、恋心が芽生えることもあるらしい。

あれ以来、絶えず注がれる視線。

私は、無視した。

他に好きな人がいたし、そもそも彼はまったく私の好みではなかったので。

だから正直、そのあからさまな態度には、辟易とした。

今思えば、なんて純粋で、なんて不器用なのだろう。
彼も、私も。

******

先日、偶然テレビで甲子園大会を目指す球児たちを描いた映像を見たら、おのずと10年前の試合を思い出した。
そして、すっかり記憶の彼方へ去っていた彼のことも思い出したのだった。

懐かしくて卒業アルバムを開き、ほぼ10年ぶりに彼の顔に対面したら、失った青春という言葉が頭の中に溢れだした。
おかげで、夢にまで見た。
正直、彼が夢に出てくることなんて初めてだった。
恋人でもなければ好きでもなかった人だから、夢に出るわけもない。
それが夢に出てくるなんて…。

夢の中では、彼は野球でなくサッカーをしていた。

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彼の消息は分からない。

彼が今も実家にいるのか、上京したのか、或いは他の街にいるのか、知る由もない。
私たちのクラスは仲が良くなかったので、同窓会もないのだ。

ほとんど朧になったクラスメイトたちの顔を思い浮かべてみる。
彼らは、郷愁や懐古の念を抱くような人間ではない。
過去よりも未来へ向かってただ進むだけの人間だ。
クラス同窓会を企画しようなんて心も、時間も、持ち合わせているはずがない。

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しかし、知ろうと思えば、情報は手繰り寄せられてくるものらしい。
それからしばらく経って

奇跡的に、彼の消息を知った。

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彼がいる地は、辺境の山間にあり、おそらく彼にとっても縁もゆかりもない「本当の田舎」だった。

私を含め、都会で慌しく日々に追われ、仕事に追われている元同級生たち。
高層のオフィスビルで流行の先端を扱う仕事は見栄えいいように思われがちだけれど、実体はただ大量の情報を使い捨てしているだけだ。
つい最近まで持て囃されていたはずのものが、簡単に捨てられる。そのスピードがあまりに速い。
やりがいもあるが、時折、虚しさも感じる。

夜、暮らしているマンションのカーテンを開ければ、眼下には煌く夜景が広がっているが、寒々とした人工的な光である。

それとは無縁に、彼は、進学校でもない田舎の高校で、素朴な生徒たちを相手に、緑濃く空広い世界で生きている。

夜は、夜景を見下ろすのではなく、星空を見上げるのだろう。

私たちがとうに忘れ去った「放課後」という概念も、彼の生きる世界では継続されていて、夕日が斜めに差し込むオレンジ色のグラウンドで、生徒たちとともに白球を追いかけている。。。

******

そう思ったら、どうしようもなく胸が昂ぶり始めた。

今になって「好き」だと感じても、どうしようもないのに。

10年前、卒業式の後に、彼は私を待ち伏せていた。
私は、知っていて、逃げた。

今思えば、幼い。
ただ想いを聞いてあげるだけの度量がなかった。

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私の脳の中に残る、昔のままの姿のあなたに向かって、呟く。

「今なら、ちゃんと聞いてあげられるよ。」

「だけど、逆にあなたは、私のことなんて、
 私への想いがあったことなんて、
 とうの昔に忘れ果てているんだろうね。」

「恋人がいるかもしれないし、もしかしたら、もう結婚しているかもしれないね。」

******

それでもいい。

未だに、あなただけは、あの青春の日々を綴り続けている。

この夏の空の下で、白球を追いかけている。

それだけでいい。

その想像だけでいい。

そう、思った。

今ごろ彼を想うのは、つまり過去を想うことなのだ。

私にとって今の彼は、私の高校時代、すなわち過ぎにし青春そのもの。

記憶の中で、あの夏は永遠に続いていく。

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