むしょうに

2004年8月29日 恋愛
深夜ひとりの、せつなさ

12時間後には、会える
 のだけれど

どうしようもなく 今求めている

今 会いたい
    むしょうに

片恋

2004年8月20日 恋愛
遠い

とても遠い

あなたにたどりつくまでの道は
あまりに

体同士はこんなに近くにあるのに

なんて遠いのだろう か

秘密の恋

2004年7月24日 恋愛
好きな人がいる
好きで好きでたまらない

その人も私を好きだという

いつもいつも
その人のことを考えて

その人が別の女と
楽しそうに話していると
とても嫌な気分になって

お互い忙しいなか
時間を割いて逢えるときは
最高に嬉しくて

約束の日を心待ちに
日々を過ごし

約束の日が来たら
とろけるような時間を過ごし

部屋を去っていけば
また 次の約束の日までの
長く長い時間を一人過ごし

そんな
恋愛の醍醐味を贅沢に味わっているけれど

ひとつだけ問題なのは
その人は
紙切れで結ばれた人間と
そこから派生した人間を
抱えている
ということだ

くわえて
もうひとつ問題点を出すとするならば
それがゆえに
私たちは
街中で堂々と
手をつないで歩けないことだ

あぶく

2004年2月3日
またあたらしいところに
いこうと
おもいつつ
日々というものは
あんがい重力をもっていて
すこしずつ すこしずつ
あたしをみうごきできなくしていたことに
きづく

それは ここ とか ひと とか

つまり

みれん

という

いっそ ぱちんと はじけてしまえば
とてもらくなのになぁ

にげることができなくなっている

いやなことがあれば にげる

それがあたしの十八番だったはず なのに



この日々よ あぶくになれ

真冬に来た春

2004年1月12日
「…どうしよう。」

それは、嬉しいとまどい。

紆余曲折の百戦錬磨を自負していたはずの女が、
まるで初心な娘のように胸をときめかせ、
再会に想いを馳せるとは!

雪の吹きすさぶ真冬でありながら、
心の中はピンクのガーベラが咲き乱れる春のごとく。
それは、冷静に傍観するもう一人の自分が
嘲笑を浮かべるほどの少女趣味、乙女浪漫の世界。

しかしそれも悪くない、
と、久しく消えていた初心な自分との対面の
新鮮さを楽しんでいることもまた事実。

ああ、
やはり青春の時代の恋はいつまでも強い。

回想

2003年12月13日
風が吹きすさぶ道を歩きながら
ファーのマフラーに首をうずめ
握ったコーヒーの缶の温かさと
立ち上る白い湯気に
冬を知る

街はクリスマスに向けて浮き立ち
めかしこんで煌く街路樹の中で
一つだけ黒い影のように
あたしは空虚を抱えて進んでゆく

たくさんの男友達と
たくさんの女友達
楽しい仲間たち
増えていく携帯のメモリー
だけど使われないメモリー
一体この小さな機械の中に
どれだけ真に必要な情報があるのだろう

携帯のアドレスだけのつながりと
家の電話や住んでいる場所も知っているつながり
どちらが深いともわからない

流れるようにたくさんの人々が
あたしと関わっては消えていく
あたしもまた
迎えいれる気もないままに
作り笑顔を浮かべて社交的に振舞ってみる

華やかに暮らしていると
思っているならそう思い続ければいい
本当のあたしを知る必要もない
あたしだって本当の自分が何なのか
わからないし わかろうと思う気もない

あたしもあなたも
お互いを都合よく使っていて
寂しいとき 暇なときだけ
ボタンを押す

なんて便利な機械なのだろう
繋がったときだけ
会える
気分が向いたときだけ
出ればいい

3年前のこの月のこの曜日
ちょうどあたしとあなたは出会った
まるで運命的な出会い
それから周りも羨む烈しい恋に落ちて
何もいらないあなたさえいれば
なんて思った時期を経て
まさか今
こんな関係にまでなっているだなんて

3年前の冬 誰が思った?
すでに恋愛関係はとうに終わっているというのに
いざとなったときに頼れる相手は
親でもなく親友でもなく
ただ一人あなただなんて

…こんなことを徒然と思いながら
すでに湯気の立たなくなった缶を捨て
携帯をバッグにしまい
ブーツのヒールを道に響かせながら
一人 歩いていく

真夏の夜の夢の3年後

2003年12月10日
3年ぶりの感触

つながれた手と手

それから

肩に手を回し強く抱き寄せる腕

甘い、甘い感触

それは陶酔に近かった。

映画館で
声を上げて騒ぐ後ろの席の女子高生を
迷惑そうに横目で見るあたしに気づいて、
彼女らに注意をした彼に
何年も接さない間の彼の変化と
その変化を起こさせたものについてを
悟った

それは多分、
現実の彼ではなく、
あたしの内側。

3年前の夏のあの日のように、
夜空に散らばる大輪の花畑を見上げながら
浴衣の袖から伸びるあたしの手を
堅く握った恥ずかしそうなその手が
すでにもう
あたしの手からは遠く離れてしまっていることは
よくわかっている。

先に手を離したのはあたしだし、
彼もまた
離された手を再び差し出すことはなかった。

それなのに、
3年ぶりの再会は、
忘れていた彼の存在を
あたしの脳裏に再燃させた。

また逢えたら、と想った

だけど、きっともう逢うこともないのだろう
とも思った

それでも、逢いたい
という本心。

次逢ったときまた更に変わっていたとしても、

逢いたい。

だから、
たとえ夢の中でも
その姿を時々見せてくれればいい。

flow

2003年11月17日
時計は時を刻む

写真は時を留める

あたしは

そのはざまにたゆたう

週末の午前

2003年11月14日
顔色ひとつ変えず他人のふり

最後のキス

2003年11月12日
一年半ぶりの再会の翌朝

オフピークタイムの
がらんとした
地下鉄のホームで

ベンチに隣同士に座った男女
一言 三言交わしながらも
視線は交わさず反対側のホームを見つめる

「これほどの距離がなければ付き合いたかった」

男はその言葉を口に出し
女は口に出さずに留めたけれども

距離がなければ良かった
などとは思わない
むしろ あって良かった
と女は思った

二人を隔てる距離があったからこそ
こうやって 穏やかに朝を迎えていられる

所詮、おたがい
距離を超えるほどの想いなど初めから無い

次に会う約束も無い

次にいつ会うことか
きっと
もう生涯会わないかもしれない

「また会えたらいいね、そのときは…」

などと、来もしない『その日』について夢語りしながら
キスをしたい と、思った

本能的に欲望が溢れた
決して愛情ではなく、動物的に思い浮かんだ。

その発想について、
それは
次にまた会いたいという間接的な意思表示なのか
それとも
再会はないだろうという予測の元のピリオドなのか

女は自分自身に問うているうちに
電車がやってきて
反対側のホームへの視界が遮られて

結局それが何だかわからないまま
終わった。

それこそが
きっと その男女の関係の全てだったのだろう。

と 女は思った。

愛しくないSEX

2003年8月24日
以前はあれほど愛しかった重みが
もう愛しくない

心が何も感じないのは
すでに恋愛対象としての感情が消滅した証拠だろう

それなのに、嫉妬だけは残っている
過去の形骸だけがこびりついているのだ
愚かにも。

疲労

2003年8月5日
誰も私を知らない
誰も私を気にかけない
誰も私の存在を必要としない

責任などない
楽園に流されてしまいたい

疲労が肉体にも精神にも蓄積されて
徒労と報われない日々の中で

そんな叶わぬ夢想を抱えながら
今日もまた溜息をつき

日々に流れていく・・・

かつて…

2003年3月25日
いつか、彼とのことは、「今は昔」になってしまう。

つまり、「思い出」になってしまう。

「思い出」になるということは、「現実」ではない、ということ。

「過去の存在」にされてしまうということ。

―いやだ。

あたしを思い出になんかしてほしくない。
あたしを過去になんかしてほしくない。
あたしを昔の人になんかしてほしくない。
あたしは常に彼の現実の人でいたいのに
あたしは
あたしは あたしは、彼の「かつて」の女になりさがる―――

…いや!

あたしが彼の「今は昔」の存在になるのも・・・

彼があたしの「今は昔」の存在になるのも!!

―時の流れとは、なんと残酷なことか。
本人の意志と無関係に、一瞬にして全てを奪う。

しかし、それ以上に、忘却という機能を持つ人間の大脳の効用が、恨めしい。

記憶というものの曖昧さよ、その不確かさは、罪。

―だけどお願い、あたしを風化させないで―

…所詮、無理なことだとわかってはいるけれど、あたしは「美化された過去の記憶」の中だけの住人になんて、なりたくない。

古いあたしを欲さないで。
常に「今」のあたしを知って。

…写真をたくさん撮った。

だけどそれは、その時点ですでに、「このときがすぐに過去になる」と皆が思っていたからこそ。

皆で思い出作り?
いいえ、現実と向き合っていないだけ。
「いま」に立ちながら、未来のために、過去の準備をしているのだ。

なんて、かなしい。
なんて、せつない。
なんて、むなしい。

…ユーミンの『卒業写真』みたいに、アルバムだけをめくって懐古して溜息をつく日々を今から用意するなんて。

 “あの頃の生き方をあなたは忘れないで
  あなたは私の青春そのもの”

 “人ごみに流されて変わってゆく私を
  あなたは時々遠くで叱って”

過去を美化して神格化するように特別な存在に仕立て上げ、しがみついて、その維持を強要する。
こんなにむなしく、自分勝手な歌があるだろうか?

人は常に進化し、その変化を見守ることが一番自然だ。時を止めることなど不可能だから。

そもそも、物理的に遠く離れていたって、心が通いあっていれば、物質・つまり肉体が不可視であろうとも、共に「いま」を生きられるのに―

―こうして、私たちは、私たちの中で、このときがすぐに失われることを理解していた。

卒業

2003年3月24日
あたしは生きているのに、
彼も生きているのに、
あたしたちは、二度と会うことがない。
別々の道を生きていく。

もとからあたし達の道は、全く別の性質でできていて、
ただ偶然、2年半ほどの間、同じ軌道にあっただけ。

交差は一瞬で、私の線と彼の線は、違う方向へ向かって伸びてゆく。

かなしすぎる。

夜明け

2003年3月19日
―長い 永い夜が、ようやく明けた―

肩から重い荷物がほどけ落ち、
そこに空気しか乗っていない軽さを
喜びと共に噛み締める。

されど、これは終着点ではない。
ようやく黎明に辿りついただけ。
仲間が諦めても食い下がり、
ついに手に入れたものは、
未開拓の土地。

これからここをどう開拓し、
何を植え、何を建て、何を育てるかは、
全て今後の私次第。

願わくば、数年後までには
色とりどりの花が咲き乱れる魅力ある園であらんことを・・・・

―いま、旅立ち―

フランスギャル

2003年3月18日
フランスギャルを流していた。

それから、予定通りの別れが来た。

フランスギャルをかけていたのは予定外だった。

なんだよ、

30年前も昔だけど、アイドルの歌なのに、

アイドルのポップソングのはずなのに、

なんでこんなに哀しいんだよ?くそう。

そう呟いて、きりきり絞め付けられる胸に言い訳した。

フレンチポップスは「オシャレな音楽」じゃない。

なんて胸に響く哀愁の唄なんだ。

瞳を濡らす水に 気付かないフリをして、

隠れてこっそり目のふちをぬぐった。

あたし あなた
「タダほど高いものはない」

という言葉、まさに。

女の、
「私、誰かを好きになったら、一筋よ。
 無償の愛で尽くしてあげるの。」

という言葉ほど、エゴに満ちた傲慢な言葉はない。

『無償』など、幻覚だ。

無償で取り引きされるものなど、
この世に一つも存在しない。

与えた者は、与えられた者に
なんらかの報酬を求める。常に。

母子間の愛情もまた同様。
『自己満足』という名の報酬を求めているわけだ。

“与えるだけ”の愛など、無い。

そして、
“与えられるだけ”の愛は、甚だ迷惑。

感情の取り引きは、『見返り』を求める“与える側”の強引な搾取から始まる。
全て。

lemon tree

2003年3月6日
たいくつな部屋にひとり腰かけ
日曜の昼下がりは今日も雨
ムダな時間がすぎていく
なにもすることがない
だらだらしながら きみを待ってるけど
何も起こらない―そしてぼくは思い出す

車で走り回る
飛ばしすぎたよ、遠くまで
気分を変えてみたいだけ
さびしいよ きみを待ってるのに
何も起こらない―そしてぼくは思い出す

どうしてさ
どうして昨日は青い空のことなんか言ったのさ?
ぼくに見えるのは、黄色いレモンの木だけ
上を見たり下を見たり
あっちを見たりこっちを見たりしてみるけど
見えるのは、やっぱり黄色いレモンの木だけ

元気なく腰かけているよ
シャワーを浴びながら外へ出たいと思っても
頭のなかはどんよりと曇ってる
ぼくは疲れてベッドに沈む
やっぱり何も起こらない―そしてぼくは思い出す

孤独―ぼくはキライさ
孤独―レモンの木にとまってるなんて
享楽の砂漠をさまよい
新しいオモチャを手に入れる
そしたら何もかもが動きだすさ―きっとびっくりするよ

どうしてさ
どうして昨日は青い空のことなんか言ったのさ?
ぼくに見えるのは、黄色いレモンの木だけ
上を見たり下を見たり
あっちを見たりこっちを見たりしてみるけど
見えるのは、やっぱり黄色いレモンの木だけ

(peter freudenthaler/1995)

*******

日記のように叙景的であり
かつ詩的でもあり
そしてそれは単なる描写ではなく
とても奥深く読み取れる。
「lemon tree」
あたしはこの曲がとても好き。

 “さびしいよ きみを待っているのに
  何も起こらない―そしてぼくは思い出す”

「好き」という言い方は妥当ではない。
そういう、感情レベル・感想レベルの
単純な言い回しではなく―非常に、同調する。

 “上を見たり下を見たり
  あっちを見たりこっちを見たりしてみるけど
  見えるのは、やっぱり黄色いレモンの木だけ”

どうあがいても、
どう現実逃避しても、
視点を変えてみたって、
与えられた現実が変わることはない。

「レモンの木」は、孤独の象徴。

ありふれた難問

2003年3月5日
  幼いころ毎日毎晩ありふれていたものを
  無いものと想定するのは 難しい

  バスはあった 電話も トンネルも
  ラジオや トーキー映画も始まっていた

  しかし無かった テレビや洗濯機や冷蔵庫
  それに隣の家の空地に自動車だなんて!

  くりかえさされた「朕オモウニ」の丸暗記
  のかわりに今はやたら多い答また答
  また答から正しいのを選べだってさ

  いつも戦争があったので
  (大多数の人類どうしよう)
  いくさが無いのが続くと想定しにくいとはー
  いったい人間のどういう貧しさのおかげなんだ

  ほんとの宿題は この難問にむきあって
  答をとことん考えつくすことじゃないか

(「ありふれた難問」木島始『流紋の汀で』/1999)

。。。。。。。

今や、なくてはならない、ケータイ、パソコン。
DVDプレーヤーにプレステにカーナビの所持率も上がってきている。

“洗濯機、冷蔵庫、白黒テレビ”が「三種の神器」と拝まれた神武景気の頃から早50年。

“車、クーラー、カラーテレビ”が「新三種の神器(3C)」ともてはやされたいざなぎ景気の頃から早35年。

木島始のこの詩はまさに、これらのブームをなぞらえ、この情報社会における無限の選択肢の氾濫を皮肉に謳っている。

私にとっては、どれも生まれた頃から当たり前に揃っていたものだったけれど、こうして、好景気がやってくるたびに膨れ上がっていく耐久消費財のブームとその定着の中で、反比例してたくさんのものを失っていったのだろう。

≪ラジオや トーキー映画も始まっていた≫
と木島は少年時代を振り返る。

今やラジオは、CDコンポやMDコンポのおまけ的存在。
4大メディアにおけるラジオ(FM放送)の総広告費も最低。
トーキーなど最早とうに消滅していて、
ドルビーの最新音響が当たり前。
DVDの単価も下がって、映画館自体の動員も減少。
シネコンの増加によって、昔ながらの小さな映画館は次々に街角から消えつつある。

そもそも、「ラヂオ」「トーキー」という言葉自体がすでに懐かしい。
80年代生まれのあたしにとっては、「レトロブーム」でお目にかかることがあるぐらい。
そう、まるで博物館の恐竜の化石のように。

今では
「初めて買ったレコードは?」
ではなく、
「初めて買ったCDは?」
と質問する時代。
レコードなんて、DJかレトロ趣味でなければ持ってやしない。

ITバブルはとっくにはじけたけど、毎日テレビのCMではネットを使った買物システムが紹介され、
「オンライン」という言葉は一種のブームのよう。
企業が自社ホームページを持つのは当たり前で、
政府も住基ネットなんてことをやり始めて。

そんな今の時代の「三種の神器」
すでに設定されているのかもしれないが
あえてここで創ってみるなら
“ケータイ、ネット、カーナビ”
だろうか?

・ケータイのメールでしかコミュニケーションのできぬ若者
・ネットに依存して引きこもる若者
・休日は終日プレステに熱中する若者
・カーナビがなければ知らない土地へ辿りつけない(地図、標識の読めぬ)若者

≪いったい人間のどういう貧しさのおかげなんだ≫
と木島は云った。

非常に逆説的な真理である。

Crazy for You 2

2003年2月27日
確かに
感情のまま吐き出すので
理論体系が整ってないわ

でもね
嘘は何一つついてない
好きだけど嫌いなの

だから
稚拙の奥の心を感じとってね
矛盾までも含めて受けとめて

ほらね
見えるでしょ 心の奥に
風にはためく白旗が

I’m Crazy for You,my darlin’?

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